一般社団法人 日本植物生理学会 The Japanese Society of Plant Physiologists

モデル植物としての苔類ゼニゴケ

 図1に示す植物はゼニゴケである。みなさんはゼニゴケと聞くと何を連想されるだろうか?じめじめとしたところに生えている邪魔ものといったイメージではないだろうか。世界中に広く分布し、目を引く独特の姿をもつ植物であるため、生物学の分野でゼニゴケには長い研究の歴史がある。19世紀には詳細な観察が行われ、精緻な植物画が出版された。このスケッチはインターネット上でも公開されている。例えば、ホームページhttp://www.geheugenvannederland.nl/ をMarchantia(ゼニゴケの属名)で検索するとKnyによって出版された図版を見ることができる。このようにゼニゴケは古くから研究に用いられてきた植物であるが、近年、日本発の新しい植物科学研究のモデルとして注目されている。

図1 苔類ゼニゴケ
ゼニゴケ葉状体(左)では盛んに光合成を行う。杯状体に形成される無性芽によって無性的に繁殖する。雌株(中央)では破れ傘のような雌器托に造卵器が発生する。雄株(右)では円盤状の雄器托に造精器が発生する。

 

1)基部陸上植物

 陸上には約30万種近くの植物が存在するとされる。その大多数は被子植物であるが、コケ植物も約2万種とかなり健闘している。多様な植物をすっきりと理解するためには、進化の系統学に基づいた分類が役に立つ。図2に植物の進化系統樹を示す。

 進化の過程では、まず、単細胞の緑藻が多細胞化した。そして、接合藻や車軸藻の仲間が乾燥に耐えるのに重要な役割をもつクチクラ層を獲得し、約4.5億年前に現在のコケ植物のようなものとして陸上へ進出したと考えられている。コケ植物の次に、シダ植物のように維管束をもつ植物(維管束植物)が誕生し、種子をもつ植物(種子植物)、更に花をもつ被子植物が出現した。進化の過程ではさまざまな形質を獲得しているが、生物の多様性は、系統樹に沿って祖先形質や進化の過程で獲得した派生形質を意識して扱うことですっきりと理解できる。このように、すべての陸上植物はコケ植物が分岐する以前の生物を共通の祖先とするひとつの系統(単系統)であると考えられている。
 コケ植物は、ゼニゴケが属する苔(タイ)類、庭園で重宝されるスギゴケや研究材料として利用されるヒメツリガネゴケが属する蘚(セン)類、そしてツノゴケ類に分類される。コケ植物のなかの系統関係はまだ推定の域を超えないが、ゼニゴケを含む苔類が陸上植物の進化の基部に位置すると考えられている。
 ところで、この系統樹では何を引き継いでいるのだろう?子が親から引き継いているものは遺伝情報(すなわちDNA)である。進化の過程で引き継がれるものも遺伝情報である。我々が利用する作物や樹木も共通の祖先から遺伝情報を引き継いで生じたといえる。進化の過程で遺伝子の増幅、欠失、獲得が起こるが、進化軸に沿ってモデル植物を選び、深く研究することや比較解析することによって、植物の基本的な仕組みの理解は大きく進むと期待される。

図2 植物の系統樹
陸上植物の進化的な関係を表す。陸上植物は4.2-4.8億年前にコケ植物として誕生した。陸上化の段階で、配偶体世代(核相n)に依存する形で胞子体世代(核相2n)が加わった。コケ植物では配偶体世代(n)が優占的であるのに対して、被子植物では配偶体世代(n)は独立せず、胞子体世代(2n)に依存する。

 

2)生活環と世代交代

 陸上植物とは何だろうか。陸上植物を正確に定義するのは意外と難しい。陸上にも藻類が生息するが、藻類を陸上植物に含めることは直感的にも抵抗を感じるであろう。陸上植物は、乾燥に耐えるクチクラ層を発達させたものとも言えるが、植物学の世界では、陸上植物に特徴的な派生形質として胚を有することから有胚植物という用語が用いられる。有胚植物を理解するために植物の世代について述べる。
 一般的には受精から誕生に至るまでの発生段階を胚と呼ぶ。つまり、動物では受精から卵が孵化するまで(あるいは出産まで)、植物では種子のなかで発芽の準備ができるまでの発生段階が胚である。では、コケ植物の胚とは何だろうか。陸上植物に特徴的な生活環の世代交代を理解するために、ゼニゴケを用いて生活環を解説する(図3)。

図3 ゼニゴケの生活環
胞子は、発芽して幼い植物体、葉状体へと成長する。日長と光質の制御により、葉状体の先端に生殖器をつくる(成長相転換)。メスの植物では、生殖器官の中に造卵器があり、そこで卵が形成される。オスの植物では、造精器で膨大な数の精子が形成される。ここまでは、単相(n)の配偶体世代である。水の助けにより卵と精子は受精して、2倍体細胞である接合子を、造卵器の中に形成する。接合子は、細胞分裂し、多細胞からなる胞子体を形成する。複相(2n)の胞子体世代として多細胞体制をもつ。成熟した胞子体では、減数分裂が起こり、胞子がつくられる。


 ゼニゴケは、胞子、つまり1細胞から生活環を開始する。胞子発芽すなわち細胞分裂によって、多細胞のからだが作られる。多細胞化の過程で、分裂組織や背腹性が確立され、われわれが目にする葉状体へと成長していく。また、葉状体の腹側に仮根が、背側には光合成が盛んな同化糸細胞をもつ気室や無性的に繁殖するための杯状体や無性芽が発達している。無性芽は単一の細胞を起源としており、クローンとして増殖することができる。これはゼニゴケが庭にあっという間にはびこる効率的な手段である。ゼニゴケは無性的な繁殖が可能な植物であるが、環境に依存して葉状体の先端には雌では雌器托(造卵器を形成)が、雄では雄器托(造精器を形成)が形成される。造卵器で形成される卵や造精器で形成される精子が減数分裂を経ずに形成される点が特徴的である。このようにかなり複雑な細胞・組織・器官の分化を行うが、コケ植物の生活環の大半は単相(n)の細胞が多細胞化している配偶体世代である。この点ではシャジクモと似ている。単相(n)とは染色体を1セットもつ半数性の核相であり、複相(2n)とは染色体を2セットもつ倍数性の核相である。
 コケ植物とシャジクモの大きな違いは有性生殖過程の複雑化と受精後の発生段階にある。有性生殖においては、造精器で作られた精子は、水の助けによって造卵器のなかにある卵へとたどりつき、受精して接合子を形成する。藻類では接合子はすぐに減数分裂をして単相(n)になるのに対して、コケ植物の接合子は複相(2n)のまま細胞分裂によって増殖し、数万細胞からなる多細胞へと発生が進行する。この段階のゼニゴケでは、胞子母細胞、胞子を飛ばすための弾糸、胞子嚢を覆う偽花被、母体から栄養を供給する足細胞や柄細胞が作られる。このような受精から誕生に至るまでの発生段階は胚と呼ぶことができ、コケ植物は有胚植物と言える。このように陸上植物に特徴的な複相の発生段階を胞子体世代と呼ぶ。その後、胞子母細胞は減数分裂を行い、胞子が作られて生活環が完了する。
 このように植物の多細胞体制は動物の複相世代とは起源が異なる。陸上植物は多細胞からなる体制を単相である配偶体世代(n)と複相である胞子体世代(2n)として交互にもつこと(Alteration of generations, 世代の交代)が生活環の特徴となった。シャジクモは多細胞体制をもつが、全て単相(n)である。被子植物では配偶体世代(n)は胚のうの7細胞まで縮小しており、胞子体世代(2n)が生活環において優占的となっている。胞子体世代の出現が陸上植物の大きな発明であったことがわかる。
 コケ植物の生活環の大半が配偶体世代(n)であることは、遺伝学実験を進める上で有利な点である。被子植物は、一生の大半を遺伝子が2セットある胞子体世代(2n)で過ごすために、メンデルが行ったエンドウの遺伝の法則の発見に通じる実験のように、変異表現型の観察は世代を回してホモ接合個体を取得する必要がある。これに対して、配偶体(n)世代はその表現型がすぐに観察できるという利点がある。配偶体(n)世代優占的なコケ植物は、現代生物学で重要な遺伝学的なアプローチが容易である優れた実験材料といえる。

3)植物科学のモデルとしてのゼニゴケ

 分子生物学では多様な生物のなかからいくつかの代表的な生物種を選び集中的に研究することで、生命活動の仕組みを次々と解明していった。大腸菌、枯草菌、酵母、ショウジョウバエ、線虫、マウスがモデルとして多く利用されている。植物では、緑藻クラミドモナスや被子植物であるシロイヌナズナやイネなどがモデル生物として広く利用されている。蘚類のヒメツリガネゴケも相同組換えの効率の高さから選ばれている。モデル生物の選択では、研究対象として問題提起する現象を最も単純な形でもつものを選ぶことが重要である。更に、現代の生物学では、遺伝学的および逆遺伝学的なアプローチが取れ、遺伝子導入実験やオミクス解析が容易であるといったことも重要な条件となる。
 ゼニゴケでは、突然変異体の分離や遺伝解析が容易である。逆遺伝学解析でもさまざまな手法が利用できる。高効率なアグロバクテリアを用いる遺伝子導入法が開発され、最も形質転換が容易な植物のひとつとなった。これを利用して、変異体の相補や蛍光タンパク質などのレポーター遺伝子を利用した分子生物学的実験が実施できることに加えて、相同組換えによる遺伝子破壊実験用やゲノム編集といった手法も開発された。
 ゼニゴケは、ゲノム解析でも葉緑体DNA、ミトコンドリアDNA、雄株の性染色体の一次構造がいち早く明らかにされ、ゲノム解析を先導してきた植物のひとつである。核ゲノムの解析は大型プロジェクトが必要であり、ゼニゴケの常染色体の構造決定は遅れていた。近年、革新的なゲノム解析技術の登場により比較的低コストで配列決定されるようになり、多様な生物のゲノムの解析が可能となった。現在ではゼニゴケ核ゲノムの配列情報もほぼ明らかにされ、これを利用したオミクス解析も盛んに行われるようになった。
 植物の遺伝子レベルでの変遷を系統的に理解するために、陸上植物の進化の基部の生物をモデル生物に加えることは効率的である。被子植物は成立の過程で染色体レベルでの倍加を経験したため、遺伝的冗長性が高い。これに対して、ゼニゴケのゲノム解析では遺伝的な冗長性が低く、基本的な構造をもつことがわかってきた。冗長性の低さは、転写因子のような制御系因子で顕著である。遺伝子冗長性は低いものの遺伝子ファミリーの分布をみると、ゼニゴケには既に多様な遺伝子が存在することがわかってきた。つまり、陸上化の時点で、かなりの種類の遺伝子が存在し、もととなる部品(toolkit)としては既に獲得していたと考えられる。陸上植物の進化過程では、根や葉、維管束といった器官や組織が発明され、さまざまな新しい機能も獲得された。その発明や機能獲得には遺伝子の転用(cooption)が大きく貢献したことが見えてきている。また、形態や機能の多様性は生物の魅力であることは間違いないが、その制御のロジックには共通原理があると期待される。見かけの多様性に惑わされることなく、単純なコケ植物を使って植物を明快に理解することができるかもしれない。役に立たない植物の代表とも考えられてきたゼニゴケであるが、思った以上に役立つ生物である。

京都大学生命科学研究科 河内 孝之
(作図協力 山岡 尚平氏)