質問者:
一般
GounG
登録番号5768
登録日:2023-10-23
こんにちはみんなのひろば
江戸時代に人工交配が行われていたか
江戸時代には
朝顔やソメイヨシノの交配が盛んに行われていたと聞きます
そこで江戸時代に人工交配が行われていた記録や証拠などは
ありますでしょうか?
江戸でなくても古代中国などで人工交配が行われた後は何かないのでしょうか
質問失礼致します
GounG様、
こんにちは。日本植物生理学会の植物Q&Aコーナーに寄せられたあなたのご質問「江戸時代に人工交配が行われていたか」にお答えします。
江戸時代には園芸がさかんになり、様々な植物の栽培が流行して多くの品種が生まれました。しかし、人工的な交配が行われていたかどうかは疑問です。多様な品種は突然変異や自然交配によって生まれたのだろうと思います。ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの自然交配によって生まれたというのが定説になっています。アサガオは文化・文政(1804~1830年)の頃に流行し、アサガオ図譜が多数作られて多くの品種が記録されています。代表的な『牽牛花(けんごか:アサガオのこと)水鏡前編』(1818年)は花形に関して47種類を正確な図で示しています。栽培法についても詳細に述べていますが、交配に関する記述はありません。
江戸時代に交配の知見が無かったわけではないようです。貝原益軒の『大和本草』(1709年)に「今世民俗ノ時好ニヨツテ草木花容変態百出ス是皆人ノ愛賞スル処人力ニヨツテ造化ノ力ヲ借ラザルナリ」とあって、「其変化ノ品色多キ物」としてアサガオなど20種ほどの植物があげられています。「造化の力を借りてはいない」とは神頼みではないという意味で、人の力で変異を作りだしたのだということのようです。しかし、これ以上のことは書かれていないので、人の力で変異を作る方法が交配かどうかは分かりません。文化年間以降になると西洋植物学の知識が日本にも導入されます。伊藤圭介は『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』(1829年)で、当時流行していたアサガオなどの変種は偶然に花粉が混入したことで生まれたものだろうという意味のことを書いています。宇田川榕庵は『植学啓原』(1834年)で、ネギの花粉をニラに受粉すれば種子ができ、その種子をまけばネギでもニラでもないものを生じ、これを間種というと書いています。明らかに人工交配のことです。しかし、こうして紹介された西洋植物学の知識が実際にアサガオの育種に用いられたかどうかは分かりません。『牽牛花水鏡前編』は『泰西本草名疏』や『植学啓原』以前の書物ですが、それ以後の嘉永・安政年間(1848~1860年)に第2のアサガオ流行期がありました。その時代にも多くのアサガオ書が作られましたが、人工交配が行われたとの記述はありません。
確かなアサガオの人工交配の記録は明治になってからのことになります。安田篤が日本植物学会の学会誌『植物学雑誌』に発表した品種間の交配で花や子葉の形態に関する変種を得たという実験についての論文が最初で、1897年のことです。園芸の分野では、岡不崩(おか ふほう)が『朝顔図説と培養法』(1909年)で、人工交配を研究すれば面白い結果を呈すると思うと書いており、現に行いつつある人も見受けるが、まだ一般には行われないと続けています。これらが信頼できる最初期の記録のようです。
このように、江戸時代に人工交配が行われていたという確かな記録は無いようです。ところが、後の遺伝学者の分析により、嘉永・安政時代にできたアサガオの品種の多くは、文化・文政時代に出現した形質の組合わせによるものが多いということが分かりました。文化・文政時代のものについても、『牽牛花水鏡前編』に描かれている花の中には明らかに二重突然変異体、三重突然変異体と見られる花がいくつかあります。江戸時代にすでに交配があったことになります。アサガオは高率で自家受粉するために昆虫の媒介などによる自然交配が起こる確率は低いので、人工交配が行われていたのであろうと思われます。
では、なぜ人工交配の記録が無いのか?交配の意義に気づいた者が、それを秘伝としてあえて記録に残さなかったということもありえそうです。珍花奇葉のアサガオは高値で取引されたという側面があったのです。重要な発見を公にせず、学問に発展させられなかったのは、日本に科学を生む土壌が無かったためだとするのが科学史家の見方です。
こんにちは。日本植物生理学会の植物Q&Aコーナーに寄せられたあなたのご質問「江戸時代に人工交配が行われていたか」にお答えします。
江戸時代には園芸がさかんになり、様々な植物の栽培が流行して多くの品種が生まれました。しかし、人工的な交配が行われていたかどうかは疑問です。多様な品種は突然変異や自然交配によって生まれたのだろうと思います。ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの自然交配によって生まれたというのが定説になっています。アサガオは文化・文政(1804~1830年)の頃に流行し、アサガオ図譜が多数作られて多くの品種が記録されています。代表的な『牽牛花(けんごか:アサガオのこと)水鏡前編』(1818年)は花形に関して47種類を正確な図で示しています。栽培法についても詳細に述べていますが、交配に関する記述はありません。
江戸時代に交配の知見が無かったわけではないようです。貝原益軒の『大和本草』(1709年)に「今世民俗ノ時好ニヨツテ草木花容変態百出ス是皆人ノ愛賞スル処人力ニヨツテ造化ノ力ヲ借ラザルナリ」とあって、「其変化ノ品色多キ物」としてアサガオなど20種ほどの植物があげられています。「造化の力を借りてはいない」とは神頼みではないという意味で、人の力で変異を作りだしたのだということのようです。しかし、これ以上のことは書かれていないので、人の力で変異を作る方法が交配かどうかは分かりません。文化年間以降になると西洋植物学の知識が日本にも導入されます。伊藤圭介は『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』(1829年)で、当時流行していたアサガオなどの変種は偶然に花粉が混入したことで生まれたものだろうという意味のことを書いています。宇田川榕庵は『植学啓原』(1834年)で、ネギの花粉をニラに受粉すれば種子ができ、その種子をまけばネギでもニラでもないものを生じ、これを間種というと書いています。明らかに人工交配のことです。しかし、こうして紹介された西洋植物学の知識が実際にアサガオの育種に用いられたかどうかは分かりません。『牽牛花水鏡前編』は『泰西本草名疏』や『植学啓原』以前の書物ですが、それ以後の嘉永・安政年間(1848~1860年)に第2のアサガオ流行期がありました。その時代にも多くのアサガオ書が作られましたが、人工交配が行われたとの記述はありません。
確かなアサガオの人工交配の記録は明治になってからのことになります。安田篤が日本植物学会の学会誌『植物学雑誌』に発表した品種間の交配で花や子葉の形態に関する変種を得たという実験についての論文が最初で、1897年のことです。園芸の分野では、岡不崩(おか ふほう)が『朝顔図説と培養法』(1909年)で、人工交配を研究すれば面白い結果を呈すると思うと書いており、現に行いつつある人も見受けるが、まだ一般には行われないと続けています。これらが信頼できる最初期の記録のようです。
このように、江戸時代に人工交配が行われていたという確かな記録は無いようです。ところが、後の遺伝学者の分析により、嘉永・安政時代にできたアサガオの品種の多くは、文化・文政時代に出現した形質の組合わせによるものが多いということが分かりました。文化・文政時代のものについても、『牽牛花水鏡前編』に描かれている花の中には明らかに二重突然変異体、三重突然変異体と見られる花がいくつかあります。江戸時代にすでに交配があったことになります。アサガオは高率で自家受粉するために昆虫の媒介などによる自然交配が起こる確率は低いので、人工交配が行われていたのであろうと思われます。
では、なぜ人工交配の記録が無いのか?交配の意義に気づいた者が、それを秘伝としてあえて記録に残さなかったということもありえそうです。珍花奇葉のアサガオは高値で取引されたという側面があったのです。重要な発見を公にせず、学問に発展させられなかったのは、日本に科学を生む土壌が無かったためだとするのが科学史家の見方です。
竹能 清俊(JSPPサイエンスアドバイザー)
回答日:2023-10-30